依存はダメだと自分を責めたり、卑下したりしていませんか?
これは依存に限った話ではありませんが、何事にも段階があります。今を生きる私たちは、いきなり今の状態になったのではなく、そこに至るまでは、色々と段階を踏んできているはずです。
誰もが依存経験者
今現在は誰にも何にも依存していない、という人でさえ、依存していた時期が存在します。今世で依存したことがないという人は、依存していた過去世が必ず存在します。今、依存していないからといって、威張れることではないのです。
人は納得するまで何かをやり尽くすと満足します。もしくは、どんなに好きな何かでも、そればかりだといつか飽きます。このようなことは、誰でも経験があるのではないでしょうか。この“何か”に、“依存状態”を置き換えて考えてみると、わかりやすいかもしれません。
私たちは魂の成長過程において、自立の方向に向かっているのですが、“依存状態”を経験し尽くしてはじめて、自立に向かえるのです。
テーマを深めたい時は、場合によっては、何回かの人生を掛けることだってあります。
だから、仮に今、依存状態だったとしても、それをネガティブに捉える必要はありません。
「あぁ、私はまさに今、依存という経験をしているんだな…」
そんな感じです。
依存される側の経験も必要
モノへの依存の場合、他の人が直接絡むことは少ないかもしれませんが、誰かに依存している場合、その依存先の相手も、依存されることを経験することで、学びや気づきがあります。いわゆる共依存と呼ばれる状態ですが、要は、依存というテーマを、角度を変えて、立場を変えてお互い学んでいるのです。
依存され続ける状態だとどうなるのか。本当に相手のことを考えたら、突き放すことが必要なこともあります。可哀想だという気持ちから、相手の痛みを自分のことのように、時には自分のこと以上に受け止めて、踏み込みすぎてしまっていることに気づけていない…“依存される側”として依存のテーマを深めようとしている場合、相手に対して自立の境界線を引くことは、簡単ではありません。
私は過去に自己破産していますが、依存される側として、大事なことを学び、気づきを得ることができました。尽くすことが相手のためになる、とか、自分はいいことをしている、といったことに囚われて、自分自身も自立できていない状態を経験したのです。
共通のテーマを、立場を変えてお互い学び合っているのだとすれば、テーマを共有する間柄というのは、魂レベルにおける関係性・結びつきは強いと言っていいでしょう。
何はともあれ、お互い相手の存在がなければ、魂の成長につながる経験が成立することはありません。そして、経験から得られる学びや気づきは、実はそこら中に溢れ返っているのです。