私が神社やお寺を参拝した際には、気の赴くままに参拝記を書いていますが、今回は、参拝にまつわることで、私が思うところや感じることを書いてみようと思います。
願い事(お祈り)してますか?
たまに耳にするのが、神社仏閣でお願い事をする(祈る)ことの是非について。
願いと祈りの違い(定義)について踏み込んでしまうと、本題から逸れてしまうので、ここでは、願いと祈りは同義として話を進めたいと思います。
「祈りとは意宣り(意を宣言する)」と表現されるように、自分の決意や想いを表明することで、成就を目的としていない、とも言われます。だから本来、神社仏閣はお願い事をする場所ではない、という話も聞きますが、私は、お願い事はしてもしなくても、どちらでもよいと思っています。
他の誰かの幸せを願うのは、とても愛に満ちた行為ですし、本来、魂が持ち合わせているピュアな部分が表に出てきているのではないかと思います。もちろん、自分自身が幸せでいられることを願うのも同様です。
そうなると、願い事をすることよりも、お願いをする時の気持ちが肝心という気がします。あなたが参拝される側なら、その気持ちを受け取った時にどのように感じるか、ということに意識を向けてみると、これからの参拝が変わってくるかもしれません。
見返りを求めない
スピリチュアル的に見ると、起きる出来事はいつだって最適です。願いが叶わなかったとしても、叶わない理由があって、そこには必ず深い意味があります。そしてその意味は、叶わなかった直後にはわからないものです。
初めから、どちらの結果でも受け入れられるくらいの気構えがあればよいと思いますが、もし意に沿わなかった時に、「高額のお賽銭をしたのに」とか、「あんなに強くお願いしたのに」、といったような気持ちが湧いてくるようなら、お願いはしない方がよいのではないか、と感じます。
あなたが参拝される側だとしたら、望みが叶うことだけに執着して、一方的に思いを押しつけられているような状態なら、やり切れない思いを抱くのではないでしょうか。これまでの参拝を振り返ってみて、「私だったら、そんな気持ちでお願いされたくない」と感じるような参拝の仕方だったとしたら、それは参拝の在り方について、考え直してみるいい機会かもしれません。
神社仏閣でのお願い事に限りませんが、執着というのは、私たちが想像する以上に、とても重たいエネルギーをもっています。「これ以外は絶対に受け入れられない」という強い執着がある状態は、ひらめきやヒントを受け取る余地がありません。
参拝が済んだら、お願い事の結果にこだわり過ぎず、あとはできることをするのみ。お願いをしておいて、こだわらないというのは難しいことかもしれませんが、その方がどちらに転んでもうまくいく、そんな気がします。