幼少期の反動が出た?!
私はこれまで、バツイチで連れ子のいる相手との結婚にはじまり、自己破産、離婚を経験しています。これは、両親が理想とする姿や価値観の枠を大きく逸脱しました。でも、私は幼少の頃は、両親の思い描く姿から外れていたわけではありません。むしろ、両親にとっての理想や価値観に、ほぼ沿ったかたちで歩んできていたと思います。
それが社会人となり、タガが外れたように逸脱のオンパレードになったわけですから、両親にとってその衝撃はいかばかりだったでしょうか。学生時代の私とは人が変わってしまったかのような印象を受けたかもしれません。とりわけ母は、自分の育て方が間違っていたのではないか、と随分思い悩んだようですが、私はもちろん、母を苦しませようとしていたわけではありません。
幼少期、私は父にとても厳しく育てられました。母はそこまで厳しくありませんでしたが、叱る時はしっかり叱るタイプで、私は両親の顔色を窺いながら行動していました。タイプは違っても、両親の理想や価値観は共通していたので、これをしたら怒られるとか、これは親の意向に沿わないだろうな、ということを先回りして考えるようになり、それが行動する・しないの判断基準になっていました。
その結果、自分を抑え込んでいたと感じます。両親の理想や価値観は、おおよそ見当がついただけに、これは受け入れてもらえないだろうということを、それとなく口にしてみると、案の定、反対されたり否定されたりするので、そのうちに口にすることもなくなっていったのです。
私と母のそれぞれの学び
親子になる関係の魂は、お互いに “振り回される” ことで、それぞれが学ぶというケースがよくあります。今世の私と母の関係では、それぞれ次のような学びがあったといえるでしょう。
私:
親の顔色を窺いながら、親の理想や価値観に沿うように自分を抑えて成長した。
↓
親の理想や価値観に沿うことと、自分の心に従うことの違いを、身をもって理解できた。
母:
自分の理想や価値観に沿った子どもであってほしいという観念が強かった。
↓
私の逸脱により深く思い悩んだが、最終的には私を受け入れ、観念の解放が進んだ。
(起こったことは取り返しがつかないので、半ば諦めの気持ちもあったと思いますが…)
親が子どもに対して、できるだけ苦労や試練を伴わずに過ごしてほしいと願う気持ちは、とても自然なことだと思います。でも、私たち魂は「成長を目的として必要な経験を積むために生まれてきている」という観点でいえば、いかに子どもが苦労や困難に遭遇しようと、子どもがどのような道に進もうとも、“その魂が自ら経験することを選んで、成長しようとしていること”に気を留めて、信頼し見守ることが求められるのです。
ついつい、子どものことに口を挟んでしまうかもしれませんが、立場の違う親と子である前に、同じ尊い魂の存在なのです。