最大にして最強の執着
私は現在、ライフコーチとして活動していますが、ライフコーチになるにあたっては、サラリーマン生活を手放す必要がありました。サラリーマンを続けていたら、この道に進むことはできませんでした。
もちろん、世の中で二足のわらじを履いている人は大勢いらっしゃいますが、当時、休日も仕事が頭から離れないほどの状態だった私には、会社員という状態を手放して、新しい何かを受け入れるスペースを作る必要があったのです。
私にとって、“サラリーマンであること”は最大の執着だったと言えます。執着している感覚もないほど、“会社勤めをしているその状態”が当たり前であり、そうでない状態は前提としてない、とまで思い込んでいました。
サラリーマン生活を手放すと決断した時にはじめて、それがとてつもない執着であることに気づいたのです。サラリーマンではない状態を想像すると、もうとにかく恐い。でも一方で、“あぁ、こんなにしがみついていたんだなぁ”と冷静に自分自身をみる私がいました。定年退職するまでは、会社に勤め続けると完全に決めつけていた、その意識こそが執着で、「会社員でない自分」というアイデンティティは、私の頭の中には存在しなかったわけです。
次はどんな仕事をするかも決まっていないのに、辞めるという決断をしたのですから、随分と思い切ったことをしたと思うのですが、かといって、会社に対して不満があったわけでもありませんでした。会社に対しての不満はなかったものの、現状の自分に対して言い知れぬ違和感がありました。でも、それはスピリチュアル的にみると、“会社を離れる時期が来ていた”ということが、今でははっきりとわかります。
人生におけるシナリオ
私たちは、親を選んで生まれてくる(魂として今世における学びを深め、成長するために、親の魂とも事前に合意した上で生まれてきている)という話は聞いたことがあるかもしれませんが、親を選んで決めるだけでなく、ある程度の大きな出来事や人との出会いに関しても、人生の脚本として組み込んできていると言われています。
その脚本でいうところの、大きな出来事に沿って進んでいる時(今回の私でいうと、会社を辞めて個人事業主になること)は、まるで追い風が吹いているように、あれよあれよという間に物ごとが進んでいく感覚を味わいます。
今回の手放しにあたり、いくつかの“用意された状況”を感じました。ひとつは離婚していたこと、もうひとつは次年度の人事が発令される直前だったことです。
家族がいたとしたら、とても決断できなかっただろうと、今でも思います。2年半前に離婚していて独り身だったからこそ、踏み出しやすい状況が調っていたのだと、つくづく感じます。
人事発令という点では、内々には次年度の体制は確定していたので、組み直しという点で会社に迷惑を掛けてしまいましたが、発令された後に退職を申し出たのでは、通知を受けた他の社員まで混乱させてしまう状況になります。それを避けるには、一刻も早く会社に退職を申し出なければなりませんでした。でも、こんな状況でもなければ、もう少しよく考えてからにしようなどと間違いなく先送りしていたと思います。
こうしてサラリーマン生活を手放したことにより、自分の中に新しい何かを受け入れられる大きなスペースができたわけです。