別の学びや気づきがある
前回お伝えした「才能や能力」にも関連がありますが、あなたが “習得した何か” は、スピリチュアルの視点では、“それを授かった”と考えることもできます。もちろん習得自体は、本人の努力の賜物ですが、取り組みさえすれば何でも身につくとか、自分の思い描くレベルに到達するわけではないことは、皆さんも身に覚えがあるのではないでしょうか。
もし仮に、何かに取り組んで満足のいく結果にならなかったとしても、それに対してネガティブに捉える必要は一切なく、身につかなかったことは案外、「あってもなくても、どちらでもそれほど影響しないこと」だったりするし、そもそもその「身につかなかったことを経験すること」自体が、その人の魂の成長に必要だったりします。
私たちは、つい成果を求めてしまいがちなところがあり、「一度取り組んだら、結果として形にしないといけない」と思ってしまうこともありますが、実はこれは観念です。そして、場合によっては、一度始めたことを途中で投げ出してはならないと自分を追い込み、それを手放せずに苦しんでしまう場合すらあります。
「これは自分には合っていない(向いていない)ことがわかった」とか、「気乗りしないことを、誰かの意向によって始めても身につかない」といったことや、「それをしている時が自分らしいし、楽しいから、スペシャリストにならなくてもいい」ということを、経験を通して学んだり、気づいたりしているのです。
ただし、人によっては本人の意思ではなく、親の意向や友達に付き合う形で始めたことがきっかけで、その分野で活躍するまでのレベルになるケースがありますが、きっかけはそれほど重要ではありません。活躍をすることで多くの人の希望や光になる、というシナリオを本人の魂が描いていることが多いです。
取り組むこと自体に、魂の喜びが隠されている場合も
私は幼少期から今日に至るまで、いくつか習いごとをしています。幼少期の習いごとは水泳と英会話、大人になってからは料理です。幼少期に習いごとを始めたきっかけは、母の意向ですが、私が全く乗り気でなかったこともあり、結局どちらも習得することはありませんでした。私は未だに泳げませんし、英語も話せませんが、これまで困ったことは一度もありません。料理だって、相変わらず手際はよくないし、手の込んだものは一切作れませんが、料理の腕を仕事にしていくわけでもなければ、誰かをもてなさなければならない場面もないので、こちらも困った状況になったことはありません。
何かを習得し、それを活かすことが、魂の描くシナリオに含まれていないなら、何かに取り組むことそれ自体が必要な経験であり、そこから学びや気づきが得られる、そこに魂にとっての喜びがあります。
どうしても習得できないことがあって、それに対してモヤモヤした思いを抱えているとしたら、本来必要のないことにエネルギーを注ぎ込んでいるかもしれませんし、あるいは、考え方・向き合い方が誤っていることに気づけていないのかもしれません。
いずれにしろ、“習得できない”という状況があるとしたら、何かに気づくサインである可能性が高いです。